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東日本津波原発事故大地震から10年、復興とは何か

~地震と津波と原発事故と、過去と現在と未来と~


現場のリアリティはパソコン画面から見る2次元平面のものとは異なり、地震・津波・原発事故の被害を強烈に印象付けるものでした。双葉町にある時計の針は震災発生時刻を指したままで止まっており、倒壊した建物や散乱した陶器は、当時の地震のゆれの強さと人が戻ってくることができなかった原因を象徴していました。車中からは、雑草のセイタカアワダチソウが、いたるところに生えている映像や林と化した水田が見え、人の手が加わらない自然が作り出す時間を感じると同時に、大量の太陽光パネルや新しく作り変えられた駅舎が見え、人によって作り変えられた福島の町も見ることができました。



川俣町、飯舘村、浪江町、双葉町、大熊町、富岡町と見回った中で、特に記憶に残っている場所は浪江町の請戸小学校です。現在、震災遺構として一般公開されている請戸小学校は、福島の町が受けた被害が地震だけではなく、津波と原発事故による放射能汚染もあったことを思い起こさせる場所でした。地震発生当時、請戸小学校に届いたメディアの情報は、津波のための避難を要するものではなく、波の高さは数メートルで、屋上に上がれば十分に助かるとされていました。しかし、異常な引き潮を見た地元漁師が学校に避難を呼びかけ、児童と教職員は遠くの高台へ避難をしたといいます。結果、児童の全員が助かり、請戸小学校にあった命は守られましたが、小学校の周辺には津波によって亡くなった遺体が流れつき、放射能汚染の影響で1か月放置されていたといいます。明るい報道の裏には暗い事実もあり、被害を一元化できない福島が受けた複雑なきずは請戸小学校の事例が表していました。



地震と津波と原発事故が重なった当時の災害の跡は、今もなお残っていましたが、すべてをきれいに片付けることが復興というわけではありません。双葉町の町長は、双葉高校が再び開かれることが町の復興を象徴すると言っていたそうです。町に人が戻り、若者が住み、教育を受ける環境が整ったときに、福島は復興できたといえるのかもしれません。



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