現地を視察することの意義(内田広義)
今回の視察では、福島駅から出発し、川俣町、浪江町を通り、双葉郡大熊町、双葉郡富岡町と移動しました。福島第一原発に至るまでの道中、さまざまな場所に案内をして頂きました。数ヶ月前まで帰宅困難地域であった山木屋や浪江町の津島地区(新聞社や診療所、旅館、スーパー、役場支社などが並ぶメインストリートや廃校となった小中高)、窯元で有名な大堀、双葉警察署、福島給食センター、桜で有名な夜ノ森に立ち寄り、それぞれの場所で2021年3月11日に時が止まっていたのは奇妙な感覚でした。これらの視察を経て得た印象的な学びは大きく3つあります。1つは震災後の福島全体に関して、残り2つは原子力発電に関してです。
1つ目は、福島全体に関することで、復興を進めることの難しさを身に染みて学びました。視察を通し、帰宅困難地域ではなく、除染が完了してすでに開放されている場所はいくつか存在し、新たな役場などの建設計画も立てられており、一見順調に復興が進んでいるように見えました。しかし、そこには生活インフラとなるスーパー、病院、銀行といった機能や、雇用機会の枯渇、従来盛んであった農林業の荒廃といった現状を知りました。人が戻ってこなければこれらのインフラは整備されないし、インフラがなければ人が戻る確率は減るという、まさにニワトリと卵の状態となっていました。また建物は風化し、家財道具は散乱していたり、もしくは家財道具が撤去されていたりと、仮に戻りたいと思っても既に人が住める環境ではなかったり、住むことを諦めた人が一定数存在したりしている様子でした。メディアのレンズを通してはなかなか見られない光景や、福島の旧汚染地域の現状を目の当たりにして、「なぜこれまで福島の復興がそれほど進んでこなかったのか」に関してとても納得してしまいました。
2つ目は、原子力発電における工夫の数々について学びました。事故での裁判の判決に「予想外だった」という理由付けがされたことに違和感を覚えた人は多くいたと思います。私もその1人でした。しかし実際に視察をしてみると、想定される様々なリスクに対して工夫をしていること、原子力発電が高度な技術力を有していることを学びました。例えば、原子炉建屋内のガスが外部に漏れないよう、建屋内の気圧を外の気圧よりも低くして、仮に亀裂が入ったとしても外部に空気が漏洩しないような工夫がありました。他には使用済み燃料を空気に触れさせて建屋内の放射線量が上がるのを防ぐために、使用済み燃料プールに全て水中で移動させる仕組みがありました(使用済み燃料等を移動させやすいように5Fまでの吹き抜けを設けるなど建物の構造上の工夫)。また技術力に関していえば、建屋内や格納容器内には見えるだけでも何千という細い配管やポンプ、数十のハンドルが配置されており、これら一つ一つの役割を理解し、点検、メンテナンスするとこを想像するとその労力は計り知れないと感じました。実際に現場を視察したことで、東電が福島第一原発に張り巡らしていたリスクへの対策や工夫の深さを知り、「予想外だった」という言葉の背後にある文脈をしっかりと理解した上で、一部発電所の全電源喪失の問題を考え、発電設備の良し悪しを判断していくことが一層大切だと思いました。ただし実際に事故により生活を一変させられた体験をしていない第三者からの視点であることには、注意が必要です。
3つ目は、原子力発電の廃炉の時間軸の長さについてです。視察前、使用済み燃料プールからの燃料の取り出しや、燃料デブリの取り出し、汚染水の処理に関して11年間かかってこれほどまでしか進んでいないのかと衝撃を受けました。視察の中で社員の方にした質問を通して、様々な回答を受け取りました。例えば、「1号機の使用済み燃料プールからの燃料の取り出しになぜ大きな囲いを作らなきゃいけないのか」という質問に対しては、「使用済み燃料プールの上に建屋の天井などの瓦礫があり、それを除く際に放射線物質を含んだダストが舞ってしまうため、全体を覆うことでダストの散乱を防ぐため」という回答を頂き、放射線物質を含むダストの存在は考えたこともなく、驚きました。その他にも事故による廃炉を行う原子炉は初の事例であるために、作業計画や必要となる技術(トリチウムなどの核物質を含んだ汚染水の処理、高放射線量の原子炉内の状況の把握、燃料の取り出し技術など)が確立されていないものばかりです。また作業員の安全性や周辺環境の保全のため、安全かつ確実な廃炉には丁寧な実証実験が求められます。廃棄物との関係では地元の人との合意もかなり難しい要因だと聞きました。
これらを全てを踏まえ、「そりゃ進まないわけだ」と合点がいきました。何をするにも放射線量の高い原子炉の廃炉には、何重もの大規模な安全対策や新しい技術の導入が不可欠であり、一つ一つサンプリングと分析をしながら進めていく地道な作業が求められることを学びました。
原子力発電は模式図やホームページの説明よりも実際はかなり精密であり、現場で見たからこそわかること、気づくことが多くありました。このような機会を設けてくださった大和田さん、東電の社員の皆さんに感謝すると共に、今回学んだことを周囲の人々に共有し、感じたことを大切にしながら、この経験を有意義なものにしていきたいと思います。
福島と向き合う1日(山本陽来)
想像以上に濃い1日でした。午前中は大和田さんに浪江町などの福島第一原子力発電所(以降、1F)周辺の地区を車と徒歩で案内してもらいました。浪江町を見た率直な感想としては、まるで11年前から時が止まっているようでした。私は埼玉県に住んで東京の大学に通っていますが、普段生活をしていると東日本大震災はすでに過去のことであり、あえて思い出すこともありません。しかしつい最近になってようやく帰還困難区域が解除された浪江町の津島というエリアでは、中がぐちゃぐちゃになった家がたくさんあり、人はいませんが町全体が震災当時のまま残っていてもぬけの殻でした。11年経ってもまだこの程度なのか、と悲しい気持ちになりました。
しかし午後の1F見学はその逆でした。2015年に女川原発を訪れたときには「関係者以外立ち入り禁止」と門前払いを食らいました。しかし今回は大した装備もつけずに事故を起こした原子炉にかなり接近できました。ここまで近づけるのか、とちょっとした感動を味わいました。
百聞は一見にしかずという諺がありますが、今回の原発視察はまさにそれでした。120万トンの汚染水とか東京ドーム350個分の広さの中間貯蔵施設とか数値で聞いてもそれを想像することは難しいですが、実際に自分の目で見るとその規模の大きさを肌で感じることができました。肌で感じることができたのは数値の規模感だけではありません。発電施設(廃炉施設)の安全性に対する緊張感もまた感じられました。このように五感で感じたことは今後忘れないと思います。1Fの職員は事故炉の廃炉というとてつもなく難しい壁を越えようとしています。時を経るごとに知識の継承が難しくなると思いますが、彼らには今後も頑張ってほしいと思います。今回の視察を通して、いくらエネルギー安全保障が大切とはいえ安易に原発再興を進めてはいけないと思いました。あくまでも原発の利用は慎重に、原発は進んで取るべき選択肢ではありません。
机上の議論に欠けたリアリティのある体験(山本峻也)
福島市から南東へ続く整備された国道には今年も大型車両が走っていました。そこでは、昨年は立ち入りが制限されていた地区も一部解放されており、少しずつではありますが、除染作業が進んでいることを確認できます。一方で、大量の除染土の処分方法や人が無理なく生活できるだけのインフラ整備などの重要で解決が困難な問題は残っており、本質的な復興はまだ時間がかかる印象を持ちました。
1Fまでの往路では今回もフリーアナウンサーの大和田さんに随行し、当時の人々の勇気ある行動や決断、想いなどを関連する場所で伝えていただきました。現地で得られる一次情報は私の想像力を刺激し、大和田さんからお聞きした情報が、よりリアルに感じました。当時も大阪に住んでいた私にとって、11年後の体験が震災・津波・原発事故に関する想いや考えの原体験であり、記憶に刻まれる経験を改めて得ることができました。
福島第一原子力発電所の視察では、技術的な話の他にも、現在ALPS処理水の設備が置かれている場所には運動場があり、事故前はソフトボール大会が開かれていたといった原発構内の広さを感じる話もお聞きしました。全体的な廃炉に向けた動きとしては、昨年と比べて大きく進んだとは思いませんでしたが、処理水を使った魚の飼育試験や、進め方に議論の余地があるとは思いますが海洋放出に向けた工事など部分的には前に進んでおり、被災地域の復興と同様、できることから少しずつ作業を進めている印象を受けました。
被災地域と原発構内の2度目の視察を終えた現在、大規模で複雑な被災状況と原子力発電について学び、復興にかかる費用や帰還困難区域の解除、原発の運営コストなど、定量的な机上の議論の重要性はもちろんのこと、それに加えて、被災地域における十分な生活水準とはどの程度か、何をもって復興を終えたとするのか、高度な知識と技術が必要な原発構内の大量の設備を数十年もの長い期間、人間が本当に大きな事故なく扱えるのだろうかといった定性的な議論の必要性を感じました。
政治や経済と結びつく現代の科学技術は、大きな力によって運用方法が決まることが多いように思います。大きな力はしばしば、定量的な議論を好み、形骸化されつつある民主主義を利用して意思決定をする傾向にある気がしますが、多様で定性的な視点を取り入れた議論を重ねることが原発をはじめとする科学技術を運用する上で重要ではないかと考えます。
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