2022年7月にClimate Youth Japanのメンバーが、福島第一原子力発電所の視察のため福島に向かいました。本ブログでは2名の参加メンバーが、視察中の感想や感じたことについて書いています。
3.11は終わっていない -現実を知り「豊かさ」を考える大切さ-
記事担当:高野
福島第一原子力発電所視察の前夜、私は前泊していた福島市にて、11年前のあの日のことを思い出していました。2011年3月11日、私は地元関西で揺れを感じました。テレビで想像を絶するような大地震、大津波と未曾有の事故の映像を見て、幼いながらにとんでもないことが起こってしまったと強いショックを受けました。特に原発事故に関しては詳しいメカニズムなどを理解できておらず、物理的な距離からも身に迫る危険性はほとんどありませんでしたが、とても遠い世界の出来事だとは思えませんでした。この日を境にエネルギー分野から広く環境問題に関心を持ち、それからかなりの月日が流れてしまいましたが、この度念願であった自分の目で被災地を見るチャンスを得ることができました。
視察当日はフリーアナウンサーの大和田新氏に引率いただき、福島市から車を走らせ川俣町、浪江町、双葉町、富岡町を巡りました。車窓からの景色が手入れされた街並みから次第に彩度の低い山間へと移ろい、帰還困難区域内では、ここがどういった場所なのかを示す看板だけが一際強調されてみえました。かつて人が行き交っていた道路脇は緑に覆われ、時折除染や車の誘導をする作業員の方、無数に積み重ねられた汚染土入りの黒い袋がぽつぽつと見えます。一時的に車を降りれば、地震で割れた窓ガラスと家具が散乱する商店と、もうコインの投入されることはない古いデザインの自販機がひっそりと佇んでおり、「復興」が進んでいると印象付けられている世間と現実との乖離を感じました。
大和田氏は震災以降、当時の住民や様々な現場で尽力していた人々への継続的な取材に基づき、現地を巡りながらエピソードを話してくださいました。当時、被災者の救助が懸命に行われていたにもかかわらず原発事故による避難の必要が生じたため、約1ヶ月間助けに行くこともできず失われた命が多くあったことや、小学校からの避難が成功し助かった命がある一方で家族は逃げ遅れ帰らぬ人となってしまったことなど、注目し賞賛される出来事の裏には数々の周知されていない悲劇があると知りました。
原発構内では、再び「復興」をどのように認識しこれに向き合うべきなのか考えさせられる現実が鋭く突きつけられました。福島第一原発では事故を起こした1〜4号機および5、6号機の全ての原子炉の廃炉が決定しており、作業が進められています。原子炉建屋にカバーが建設され漏れ出る放射線量を低減したり、核燃料デブリの取り出しを見据えたロボットアームの開発、実験などが実施されてきました。そのうち、2022年7月時点では1号機のみ事故当時の姿を残しています。原子炉建屋の上部は、頑丈な金属の骨組みがひしゃげ、壁やがれきが崩落して積み重なっていました。1号機近くの割れた窓ガラスの目立つ建物は、事故以前に職員の方が勤めていた拠点だったそうで、爆発の衝撃の強さを表していました。陸側の構内では、土砂崩れで倒れた鉄塔もそのままの形で残されています。この鉄塔は外部電源喪失の要因となったもので、後世への教訓とするため震災遺構として保存されているそうです。そのほか職員の方には、処理水を貯蔵する膨大な量のタンク、浄化設備、防護服など廃棄物の焼却処理施設などを見てまわりながら説明いただきました。
このように「復興」に向けた作業は着実に進んでおり、事実として事故を起こした原子炉建屋や一部の施設を除いた構内のほとんどが防護服などの特殊な装備なしで作業できるほど放射線量は低く、安全が徹底されているといいます。しかしながら私は、ひとたび起こってしまった事故の後処理のため、多くの人ともの、人間社会と自然環境が犠牲を払ってきたこれまでと、人間社会の時間感覚で計れないこれからを想像し、鬱屈とした気持ちに陥りました。
CYJで活動する身として、今回の視察では気候変動の文脈からも原子力発電の在り方を考えたいと思っていましたが、結論はすぐには出そうにありません。ただ一点、経済性と環境配慮性の視点だけにとらわれず、根幹にある価値を忘れてはならないことを確信できました。それは、それぞれの地に住まう人々の安全と生活、加えて自然環境が保障されるような「豊かさ」であると考えます。マスメディアで聞いた情報をもとに、なんとなく「復興」は進んでいるらしい、と考えている人は多いと思います。しかし、誰にとってもそのように他人事ではいられないはずです。この身で被災地を歩き得た経験や言葉にならない感情を適切に共有し、より多くの人に震災と原発事故から「復興」「豊かさ」について考える機会を持ってほしいと願います。
東日本大震災がもたらした福島の今
記事担当:遠藤
視察当日、福島駅に到着し、しばらく駅周辺を散歩していて見えた早朝の福島駅は、会社員や学生が忙しなく行き交い、犬との散歩を楽しむご老人や、ランニングに精を出す地元大学生など、何1つ違わない日常が広がっていました。ここからわずか60km先にニュースで散見される福島第一発電所があるのか信じ難いものでした。
視察は、震災以降地域に寄り添って取材をしてきたフリーアナウンサーの大和田新さんの案内の元、被災地を回ることから始まりました。既に住民が戻ってきている川俣町では、綺麗に舗装された道路と、その脇に植えられた多種多様な花々、真新しいコミュニティセンター「とんやの郷」など、一見するとのどかな田舎町である反面、かつて子どもたちに青春をもたらしたスケートリンクには雑草が高々と生え、将来を願い新設された小中学校はわずか1年で閉校するといった様子で、川俣町は依然、次世代に繋ぐ「復興」というよりも「復帰」に留まっているように感じられました。しかし震災から10年以上経ち、福島の外で新生活を育む子ども達にとって、福島に戻ることが復興になると言えるのかというのもまた解決しない題材です。福島第一原発事故は、放射性物質の半減だけではなく、地域社会や文化にまでも、何百年と再生されない問題を残してしまったのだと痛感するばかりでした。
午後からは東京電力の職員の方数名が迎え入れて下さり、実際に福島第一原発内を視察しました。まず福島第一原発の南西に位置する建物に入り、内部被ばくを防止する為の検査やグリーフィングを受けました。事故機から距離があるためか、この施設内には、ドキュメンタリーから思い浮かべる緊張した重厚感のある雰囲気ではなく、職員の方が挨拶を交わし、世間話や近況で笑顔を浮かべ、時には作業の報告をしあう、賑やかで楽しそうな雰囲気が漂っていました。
しかしバスに乗るとその雰囲気は一変しました。元々桜の木が1000本もあったという構内は今や緑が消え、汚染防止のためにフェイシングされた土、立ち並ぶ白い建物、整然と並ぶ無数のフレコンバック、処理水の貯蓄タンクなど、まさに無機質な工事現場たる様相で、時間の経過と共に自然そのものの姿を表象していた浪江町や双葉町の街並みとは一線を画す光景からは、復興のためにどれだけ廃炉作業が焦点を当てられてきたのか肌で感じるものでした。
2022年はウクライナ軍事侵攻で起こる原発に対する攻撃への不安、また一方で度重なる電力需給逼迫警報など、原発の不確定性と電力不足の解消の相反性というのがより身近になっていると思います。
地震と津波という自然の脅威、そして福島第一原発という安全神話の崩壊を目の当たりにした視察で、電力を求めて「安全性が高い」「脱炭素への貢献」と謳われる新たな原子力発電の推進を声高に伝えること、反対に原発を一切禁じることはお互い正しさを持ち合わせているのか。気候変動が身に迫り、答えを見つける必要がある中で、更に迷いは深まるばかりです。
「絶対」と呼べるものが無い中で、まずはより多くの人が福島に興味を持ち、実際に訪れて、そしてそれぞれのバックグラウンドを介した迷いを持って欲しいと感じる視察でした。
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